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決算入ったといっても、現場から伝票が来なければまだすることがないわけで、昨日は早く帰れました。
でもなぜか飯食ってる途中から正体不明の気分の落ち込みが来まして、そのあと23時ぐらいに風呂からあがったぐらいの記憶がよくわかりません。
そのあとは智代アフターやって寝ました。
あ、電話するの忘れた・・・。ごめんよ。
まだCG二枚埋まってないんですが、序盤の選択肢の選び方によるものでしょう。
で、感想なんですが、KEYとしてはこれでよかったのかなぁ? と思いました。
KEYの作品は、結局のところ奇跡に頼る作品を作っていたわけですが、今までの作品は、奇跡以外の部分の話の構成や会話のテンポ、音楽と画による盛り上げなどによってうまくそこら辺を気づかせないように、意識させないようにしてきた面はあると思います。それが意識的になのか無意識なのかはわかりませんが。
で、今回の智代アフターはそこら辺のごまかし方がうまくないというか、全体的に荒削りな感じがして、どうも話の折々に唐突さが感じられてしまう。
話の途中途中で感じる「なぜ?」が、物語の次を連想させる「なぜ?」でなかったのがとても残念でした。
ついでに、この作品で語られる強さがどこに向かっているかについても少々。といいつつかなり長くなりましたが。
智代は決して強い人間じゃなかった。少なくとも通常エピソードの部分では。
アフターで、強くなろうとする智代を描いているのはわかる。けれど、その強さは、その智代が突きつけられる現実は、おそらくユーザーが智代に求めていた強さではなかったんだろうな、と思いました。
ユーザーがこの手のゲームをやっていて、真っ先に入りこむのは主人公だと思うし、たぶんこの考え方は間違っていない。
でも、アフター最後の部分の智代の強さが誰に向けられたものなのか、誰のものなのか、と考えると、その強さは主人公以外の人間に向けられている。そして、その強さはもはや(ユーザーが自分を投影している)主人公のものではなくて、智代自身のものになっている。と感じられました。
気丈な女性や、ツンデレの女性の魅力というのは、その凛々しさや表面上の力強さといった、誰にでもわかりやすい魅力とともに、ちょっとしたときに垣間見える弱さ、誰かを頼る気持ちといった部分にも魅力があって、どちらかというとその「弱さ」の部分に魅力を感じる人が多いのが現状だと思いますが、智代アフターの智代に関しては、その魅力が主人公の方に100%向いているのではないため、どうしても置いていかれたような感じになってしまうのかな、などと考えてみたり。
単純に、アフターにおいて主人公が陥る境遇が唐突の極みであるために、それが受け入れがたいことも、物語への感情移入を妨げる大きな要因になっているとも思いますが。
個人的な願望としては、あの夕焼けのシーン。
すぐ隣でなくてもいい。端っこに小さくでもいいから、朋也の父親を描いて欲しかった。
それだと智代の強さが薄れてしまうというのはわかる。
CGで描かれたときのインパクトも、どうしても減ってしまうのはわかる。
けれど、それが家族ってもんじゃないのかなぁ?
智代と朋也が家族だというのならば、朋也と父親も、そして智代と父親も当然家族だ。
ゲーム内で描かれた父親と智代との考え方・関係ならば十分そういう演出は可能だったと思うし、三島有子と「とも」の関係との絡みから言っても説得力のある結末になりえたんじゃないかと思った。